2024年3月18日月曜日

講演レポート 奥山景布子 文学講演会・作者が語る『フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~』

2024317()

名古屋市・ルブラ王山にて、あいち文学フォーラム主催イベント

奥山景布子 文学講演会・作者が語る『フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~』を行いました。



2023年に刊行された『フェミニスト紫式部の生活と意見』(集英社)をテーマに講演をされました。

〇千年の時を超えて届く女たちへの「連帯」のメッセージ。平安文学研究者出身の作家・奥山景布子が「フェミニズム」「ジェンダー」「ホモソーシャル」「おひとりさま」「ルッキズム」など、現代を象徴するキーワードを切り口に「源氏物語」を読み解く。そこに浮かび上がってきたのは、作者・紫式部の女性たちへの連帯のまなざしだった。時空を超えて現代の読者に届くメッセージ──希望ある未来へとバトンを繋げる新解釈。



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以下、要約と抜粋

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〇『フェミニスト紫式部~』は、「源氏物語」を、今の私たちの感覚でわかりやすく読むには、こういう所に注目するべきではないのか、ここを見過ごしてはいけないのではないのか、という内容の本である。

〇紫式部の視点「サブカル」からのまなざし・・・日本語は、元々文字のない言語だった。昔の日本語はそれを書くための文字を持っていなかった。どうして書けるようになったのかというと、中国から漢字が輸入されてきたから。漢字によって、日本語を表記することが発明された。

万葉集、日本書紀、古事記などは、日本語をどうやって文字に書き写すことができるか、読み書きができるようになるかの「実験場」のような側面があった。

〇漢文を真名(まな)という表現をしていた。仮名(かな)の反対が真名で、漢字は輸入された新しい文化で、漢字に馴染むことができる人は、特定の階層(お坊さんや官僚、政治家など)に限られていた。女性には漢字は馴染めない状況があった。

和文(仮名)が発明されて、仮名の文化は女性に浸透し、漢字は男のもの、という文化が成立した。漢字を「男手(おとこで)」と呼ぶようになり、仮名を「女手(おんなで)」と呼ぶことになった。

文字と文体に「ジェンダー」(社会的・文化的な役割としての「性」)が生まれた。

〇漢籍(歴史書、思想書、漢詩文集)は価値でいうと上、和文で書かれた作り話は価値の低いものとされていた。

現在でいうと少し前までは文学が上、アニメやコミックが下といった、ハイカルチャーに対するサブカルチャーがあり、平安時代においては漢籍が上で、和文の作り話は下、と見なされていた。

現在では源氏物語は古典だが、当時はサブカルであった。


〇源氏物語の特異性・・・同時代の作品(竹取物語、伊勢物語など)は、作者が誰かわからない。どのような事情で成立したのかもわからない。なぜかというと、作者であることが名誉ではないから。

源氏物語の特別なところは、作者名がわかっていて、成立事情もわかっていること。「男性」や「権威」が認め、賞賛することで、サブカルだった源氏物語の地位が向上していった。他の物語にはない現象。

詳しくは『ワケあり式部とおつかれ道長』奥山景布子著(中央公論新社)を参照。





〇「古典」としての歴史・・・源氏物語の注釈書は、歌人による研究が最初で、その後は本居宣長に代表される国学が江戸時代に発展して注釈書が作られた。その後、東京帝国大学に国文学科が登場した。が、全て男性中心で注釈、研究、評価が行われていた。

どの注釈書も素晴らしいし尊敬もしているが、どこかに見落としや思い込みはないのか?女性の視点から見直したら、違う側面が見えてくるのではないか?作者はこの本(『フェミニスト紫式部~』)で最大限に提言した。そのための道具として、現代用語を使って、新しい概念で源氏物語に光を当ててみる、という試みをした。





〇人物像見直しの試み・・・夕顔の人物像は、光源氏目線では「はかなげで内気で、かわいい女」だが、夕顔の立場に立ってみると・・・なぜ女から見知らぬ男に声をかけたのか?なぜ素性も知れぬのに関係を続けたのか?実は幼い女の子の母だったが、なぜ娘を置いて光源氏に従ったのか?・・・夕顔の本心は、とても不安だった。夕顔の苦悩は、死んでから明らかにされる。

夕顔はなぜ、光源氏の誘いに乗ったのか? → 作者の深読みでは・・・夕顔はなぜ、光源氏を誘ったのか?それは「娘とともに、生き延びるため」。

男性に養ってもらうことも、他家にお勤めに出ることも難しい彼女にとって、千載一遇のチャンスだった、と読むと、夕顔の人物像がかなり変わってくる。



〇紫の上の「終活」・・・マンスプレイニング(上から目線の自分勝手な説明や説教)によって、紫の上の苦悩は深くなる。光源氏から紫の上に対する「教える」の言葉が圧倒的に多い。やがて死期が近づいていることを予感した紫の上は出家を望むが、光源氏は許さない。せめてもと、法会を営むことにする。

「仏の道」については、光源氏は教えていない。紫の上は自分自身の力で仏の道を学んだ。紫の上は死の間際、光源氏の腕の中では死なず、養女に手を取られながら息を引き取った。死の間際にようやく呪縛から解かれた、とも読める。



〇フィクションの読みは「正解はひとつではない」。こちらの立場からはこう読める、同じ物語でもこの人の目を通したら、こう読める、というのはフィクションの読みとして幅がある。




〇若い人から古文、漢文は役に立たないという意見をよく聞く。自分の国の言語で残っている作品に、私たちがアクセスできなくなったら、どうするのか?どこにも紹介できない、それを楽しむことができない・・・こんなもったいないことはない。何かの役に立つかはわからないけれども、私たちの文化を豊かにしてくれる。

人は、心が立ち止まって進めないときには、文学作品に救われることが多くある。私自身も自分が書くことで救われてきた。



質疑応答

〇平安時代の女子教育について・・・当時は学校がなかった。その家に生まれて、その家で学ぶ機会がないと、なかなか色々なことは学べない。現代用語で言う「親ガチャ」。それを支えるのが女房や乳母で、自分の持っている知識を教えることができた。

自分の知識で身を立てることが可能だった人がいた、ということが、文学が成立した懐だと思う。

〇乳母の給料について・・・当時は貨幣経済が主流ではなかった、といわれている。食事と住まいは保障されていた。着るものは祝い事などでもらっていて、それを何かと交換する場面もたくさんあるので、現物支給的な側面が乳母たちの生活は大きかったのでは。


〇源氏物語の現代語訳で好きな作家は?・・・おすすめは「自分の好きな作家」が良いと思う。世代が近いとか、好きな小説や作品を書いている作家の現代語訳が受け入れやすいと思う。

私自身は田辺聖子の現代語訳が好きで、他には、漫画家の小泉𠮷宏氏「まろ、ん?」(幻冬舎)が読みやすく、原文に忠実なので、横に置いて確認しながら現代語訳を読むのがおすすめ。


〇研究者の時と作家になってからとでは、源氏物語に対する思いは変わったのか?・・・

研究者の時は、どこをどうとったら論文を書けるだろうか、という目で見ていたが、小説家になって、自分の作品を書く時に、源氏物語のこういう方法が参考になるな、と思うと、そこが面白くなったり、こういうふうに紹介したらに興味を持っていただけるのかな、というふうに思うと、読み方のバラエティが増えたので、今の方が楽しいのかな、と思う。






2024年1月24日水曜日

奥山景布子さん 文学講演会のお知らせ



奥山景布子 文学講演会

作者が語る『フェミニスト紫式部の生活と意見 ~ 現代用語で読み解く「源氏物語」 ~』

主催 あいち文学フォーラム

日時 令和6年3月17日() 午後2時~3時30分(受付開始午後1時20分~)

会場 ルブラ王山・弥生の間(地下1階)名古屋市千種区覚王山通8-18

地下鉄東山線「池下」2番出口から徒歩3分

会費 2,000円(予約申込の上、当日受付でお支払い下さい)先着100名様

申込 令和6年3月3日()までに下記の連絡先にお申し込み下さい。

連絡先 上中 090-7043-0159 応答できない場合、後で連絡します。

講演後、著書の販売とサイン会があります。


奥山景布子さんのプロフィール

名古屋大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。

主な研究対象は「蜻蛉日記」「源氏物語」「とはずがたり」などの中世仮名文字。

小説家としては、2007年に「平家蟹異聞」で第87回オール讀物新人賞を受賞。

09年、受賞作を含む『源平六歌撰』で単行本デビュー。

17年度愛知県芸術文化選奨新人賞受賞。

18年、『葵の残葉』で第37回新田次郎文学賞、

8回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。

『元の黙阿弥』『葵のしずく』『やわ肌くらべ』『浄土双六』など著書多数。

近刊は『フェミニスト紫式部の生活と意見~現代用語で読み解く「源氏物語」~』、『ワケあり式部とおつかれ道長』。


2022年3月14日月曜日

奥山景布子 文学講座・作者が語る「流転の中将」

 

2022313日(日)

名古屋市・ルブラ王山にて、あいち文学フォーラム主催イベント

奥山景布子 文学講座『作者が語る 流転の中将』を行いました。



2021年に刊行された『流転の中将』(PHP研究所)に、2017年に刊行された『葵の残葉』(文春文庫)と合わせて講演をされました。

〇『流転の中将』会津藩・松平容保(かたもり)の弟で、桑名藩主・松平定敬(さだあき)。

兄と共に徳川家のために尽くそうとしたゆえに、越後、箱館、そして上海にまで流浪した男の波乱に満ちた人生と秘めたる想いに迫る。

〇『葵の残葉』兄弟の誰か一人でも欠けていれば、幕末の歴史は変わった─。石高わずか三万石の尾張高須の家に生まれた四兄弟は、縁ある家の養子となる。それぞれ尾張藩慶勝(よしかつ)、会津藩容保、桑名藩定敬、そして慶勝の後を継いだ茂栄(もちはる)。幕末の激動期、官軍・幕府に別れて戦う運命に。埋もれた歴史を活写する傑作長篇小説。


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以下、要約と抜粋

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・流転の中将は、葵の残葉を書いているときに、これはもう一本書かないと完結しないという思いで書いた。

・徳川家康が天下人となり、江戸に幕府を開いて以来、世襲制となり、将軍家の血筋を絶やさないため必要な知恵が、分家をつくること(尾張、紀州、水戸の御三家)。

・最後の将軍・徳川慶喜は、毀誉褒貶のある人で、判断の正しいことをしたと思う側面があるが、まわりの人を振り回した、という側面もある。作品内ではどちらかというと悪者として描いている。

・大老・井伊直弼は、諸大名が政治に口を出すのは良くないと考えていた。意見を述べようと思って、呼ばれもしないのに江戸城に登城した慶勝を、やってはいけない押しかけ行為だとして、隠居・謹慎処分にした。この事件が、のちの安政の大獄の発端となった。

・治安の悪くなった京都で、幕府の意見を代表して力を振るうべく、一会桑体制(一橋・会津・桑名)が確立された。そして、長州征伐の総督として慶勝を任命した。慶勝は、海外の事情に精通しており、内戦をしている場合ではないので、戦乱を起こさず穏便に済まそうと考え、薩摩藩の西郷隆盛に協力を仰いだ。だが慶勝の考えは、長州を征伐したい一会桑の考えと相容れず、慶勝は一会桑と袂を分かつこととなった。

・鳥羽伏見の戦いで不利を感じた慶喜は、軍艦・開陽丸で江戸へ容保と定敬とともに、極秘で逃げた。ここで慶喜が退かなかったら、激しい内乱に発展していたかもしれない。しかし、逃げるつもりがなかった容保と定敬にとっては、非常に不本意であった。

・慶喜が逃げたことを知って勢いづいた新政府軍は、一会桑を含めた幕府方の重役たちを朝敵(賊軍)に指定した。それに伴って、桑名城陥落の命令が下された。距離が近いため、惣宰(そうさい)酒井孫八郎は、定敬不在のなか家名存続のため恭順を決定した。



・一会桑と内通しているのでは、と朝廷に疑惑の目を向けられた尾張藩は、恭順の意を示すため、尾張徳川家史上最大の悲劇「青松葉事件」を引き起こす。旧幕府派の家臣14人を粛清した。この事件はこれまであまり語られることはなく、名古屋城に青松葉の碑があるが、ほとんど知らずに素通りされている。

・なぜ新政府軍は、旧幕府側の抵抗を受けず、たやすく京から江戸まで行けたのか?それは尾張藩が、迷っていた諸藩に使者を送って、新政府側に従っていることを伝え、攻撃しないことを誓うよう、七百五十通におよぶ勤王証書を募った。だから、新政府軍は争いなく無血開城を成し遂げた。

・定敬は、抗戦を胸に秘めつつ、会津→柏崎→箱館→横浜→上海と流転を続けた。朝廷にも幕府にも忠誠を尽くしたのに、なぜ自分は朝敵とされているのか理解できなかったのではないか。

・惣宰の酒井孫八郎は、当時のことを克明に日記に残しているが、定敬が横浜に着いてから約三週間、何も記述がない。どこで何をしていたか、誰も語っていない。作者はとある仮説を立てて、その仮説に従って書いた。妄想ではなく、あらゆる説の中のひとつを採用して、小説として書いた。







〇質疑応答

・定敬が平民への転籍を願い出た理由は?

─いろいろ考えがあるが、流転している中で、庶民の生活を見て、もう少し自由に行動したい気持ちがあったのではないか。

〇福島で定敬の足跡を訪ねてみたい。

─桑名藩士が戦いに参加した碑は残っているが、定敬がどのような動きをしていたかは、わかる時とわからない時のものがあるが、あちこち移動していたことは間違いない。

〇城山三郎「冬の派閥」で描かれた青松葉事件と、奥山先生の作品との関わりは?

─最初のきっかけは、NHKの番組で慶勝のことを知ったことで、それまでは幕末を作品に扱うことに抵抗があった。しかし、慶勝のことを知ってから、小説に書きたいと思うようになった。知人に「冬の派閥」を頂いてから、徳川美術館で取材することになった。幕末の史料は、慶勝の写真技術など、現在でも新しいものが発表され、わかってきたものがある。そこも生かして新しい形に書き換えるのも、私の使命だと考えて書いてきた。

〇名古屋が明治以降、取り残されたような状況にあるのは、慶勝の態度にあるのでは?

─慶勝の決断は、後に大きな禍根を残し優秀な人材を失って、家中の雰囲気も重くなった。やむを得ないことだが、尾張にとっては痛手だったのでは。その中でも救いなのは、定敬が出頭した後、茂栄と慶勝が、定敬の身の上を心配する書状を送りあっていたこと。お家騒動で争ったが、家の上に立つという立場にあって、色々なことを吞み込んでいかなければいけないと考えていたのだろう。大きな犠牲があったが、明治政府ではあまり重職に就いている人がいないことへの後ろめたさが、取り残された理由なのでは。





2019年12月15日日曜日

文学イベント「南吉さんに会いに来て!」

20191214日(土)



名古屋・東別院イーブルなごやにて、文学イベント「南吉さんに会いに来て!」を行いました。






第一部は、朗読劇「ランプの夜」。

演出は馬場豊氏(脚本家 生徒・母親・市民による種々の朗読劇の構成、演出)。











旅人「私はあまりにもたくさんのものをみました。あまりたくさんのことを知っているのです。あまりたくさんのことを知ると、人は悲しくなるものです。」

姉「つかれているんでしょう。」

旅人「つかれています。」

姉「ここでゆっくりしていらっしゃい。いまにお母さんが帰っていらっしゃいますから、そしたらお茶をさしあげます。」

旅人「え、でも、私はゆっくりできないのです。私はゆかねばなりません。」

妹「なぜそんなに急いでゆくの。」

旅人「なぜか知りません。私の心がゆかねばならないというのです。」








妹「ああ、びっくりした。だれなの、あんたは。」

泥棒「泥棒です。」

妹「あら、いやだ、自分で泥棒ですなんて。泥棒にしてもずいぶん、まぬけな泥棒ね。」

泥棒「そんなことはない。」

姉「あら、そんなことはないなんて。」






少年「さあゆこう。」

姉「ほんとうにもうゆくの?」

少年「え、さよなら。」

姉「またいらっしゃいね。」

少年「いいえ、もうきません。」

妹「どうして?さっきの旅人だって、泥棒だって、またくるっていったわ。」

少年「でも、ぼくはもうきません。」

妹「どうしてそんな悲しいこというの。」

少年「でも、あの子がもういないもん。」








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第二部は、文学講演会「新美南吉はなぜ故郷あいちを描いたのか?」

講師は遠山光嗣氏(新美南吉記念館学芸員 新美南吉研究家)。







新美南吉は、東京の学生時代に、築地小劇場に出たり、学生演劇のグループにも参加していて、演劇に関心が高かった。

安城の女学校の先生になって、学生に芝居をつくるときにも力を入れていた。





平成から令和になり、美智子さまに関連して南吉作品が取り上げられた。美智子さまは、平成十年の国際児童図書評議会の講演で「でんでん虫のかなしみ」を紹介された。

美智子さまは、声が出なくなる病気を乗り越えた後の講演だった。悲しい時、つらい時に心の支えにされた物語と受けとめ、それまであまり知られていなかった「でんでん虫のかなしみ」は一気に有名になった。






文学ならではの読解力、共感力を養えるという点で「ごんぎつね」は非常に適した教材であって、全国の国語教師に支持されている。しかし、実用文を読ませるべきだ、文学など役に立たない、と考える人にとっては「ごんぎつね」は悪弊のある文学教育の象徴にされてしまう。





なぜ南吉はふるさとを描くことにこだわったのか?単に郷土愛ではない、南吉ならではの理由がみえてくる。



南吉は今から106年前、大正2年(1913)に、知多郡半田町岩滑地区に生まれた。本名は渡辺正八といった。南吉が4歳の時に母を亡くした。父が再婚をして、まもなく父と継母との間に息子が生まれた。その後、実の母親の新美家で30歳で叔父が亡くなった。そこで、8歳の時、南吉は新美家の跡取りとしてもらわれていった。
後妻に入った母と生活することになり、南吉はつらい思いをすることになった。そして、とうとう寂しさに耐えられなくなり、半年ほどで渡辺家に戻っていった。




中学生になった南吉は、読書に熱中するようになった。二年生のころから、童謡や童話をつくるようになる。卒業し、高校受験するが、痩せすぎだったため体格検査で不合格になったため、一時母校で代用教員を務めた。



この時期に児童雑誌「赤い鳥」に作品が載りはじめ、昭和7年に「ごんぎつね」が入選した。自信を深めた南吉は、どうしても東京に出たくなり、東京外国語学校英文科に進学した。



東京時代は北原白秋に師事し、やがて兄弟子の巽聖歌にかわいがられた。文学以外にも様々な芸術にふれるが、この頃から肺結核に侵され、卒業後に喀血をし、帰郷した。

帰郷してからは、小学校で代用教員をしたり、鶏のエサをつくっていた田んぼの飼料会社に勤めたりして、満足に創作に打ち込めなかった。



そんな様子を見た中学校時代の恩師が奔走し、昭和13年に安城高等女学校の正教員として採用された。2年目以降は、安城新田の大見家で下宿をし、経済的にも精神的にも安定した南吉は、再び創作活動が盛んになり、昭和16年に「良寛物語」「手毬と鉢の子」を出版した。



新人作家として本格的にデビューを果たすが、その頃には結核がかなり進行していて、翌年の昭和18年3月22日、29歳で亡くなった。





南吉童話の特徴に、物語性と文章の平明さがある。子どもが引き込まれるようなストーリーの展開の面白さと、文字を目で追わずに耳だけで聴いても頭に入ってくるような、やさしくわかりやすい文章で、この二つは民話の特徴でもある。



南吉童話に狐が多く出てくるのも、民話から学ぼうとした影響かと思われる。狐は人を化かしたり演技したり特殊な力を持っていて、神の使いとして神秘的な印象があると思えば、いたずらをしたりと、ユニークな魅力がある。



「ごんぎつね」には、本来あった郷土色が消された一面もある。方言がそれで、当時「赤い鳥」の主宰だった鈴木三重吉によって手直しされた。当時無名だった南吉の原稿が直されるのは当然といえた。現在われわれが読んでいる「ごんぎつね」は、三重吉の手が加えられた文章である。例えば「いわしのだらやすー」が「いわしのやすうりだァい。」に変えられている。





作品の舞台と歴史が反映されている作品では「おじいさんのランプ」がある。当時の尾張大野は指折りの都会だった。電気の供給で最初に電灯がともったのは大野だった。

舞台になった半田池は、現在は埋め立てられ、ソーラー発電所になっている。

「島」にも、捕鯨が行われていた篠島の鯨浜(くじはま)が描かれている。







どうして南吉はふるさとにこだわり、ふるさとを描いたのか?

もともと故郷への関心はあったが、同時に都会に対する強い憧れがあった。

東京での生活に親しむにつれ、故郷の人々をうとましくさえ思い始めた。その一方で、健康で生命力あふれる田舎の人々に対して、自分は病弱で生活力がない、と屈折した思いを抱いていた。



帰郷した南吉が、次第にふるさとに生きる人々を肯定的に受け入れるようになったが、ふるさとでないといけない、ふるさとだからこそ書けるんだと思わせる根源的な理由があったと思われる。



「しみじみ感じる」。言い換えると「実感する」ということを南吉は大切にした。

「南吉は文学で自己表現をした作家」と、向川幹雄氏が評した。何を自己表現したかったのか、というと「美しいものに感動する喜び」そして「互いにつながり合いたいという願い」と思われる。このテーマは南吉の作品で繰り返し描かれている。







南吉の人間像を深掘りすることで、作品への愛着が深まった講演でした。




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 会場ロビーには、精巧なジオラマ作品が展示されていました。






















『僕は現在「実感」つまり、しみじみそうだと思う瞬間が人間の生命の一番甲斐のある働きをしたときだと思う。弾丸でいうと的の中央にあたるときだ。ところでその「実感」というやつはまことに微妙な存在のしかたをするのであって、決して二度同じ実感があるということはない。例えば同じ書物を読んでも、最初のときにうけとる「実感」と二度目にうけとるそれとは違うのである。』(昭和15年2月2日 日記より)




若さあふれる朗読劇、多くの発見があった講演、手作りのジオラマ作品など、

南吉愛をしみじみと感じるイベントでした。